「日本語が亡びるとき」を読んだ所感、ブロガーとしての選択

本書の中でたびたび出てくる「図書館」というワードによって真っ先に頭に浮かんだものは「wikipedia」のことであり、グーグルが進めている「ブックサーチプロジェクト」のことであり、ブログが創造している知的情報圏のことであった。

今、人類の歴史がはじまって以来の大きな<普遍語>となりつつある英語の<図書館>であり、その<図書館>だけが、英語を <外の言語>とするもの凄い人の数が出入りする、まったくレベルを異にする<図書館>なのである。(中略)高い教育を受けた全世界の人が出入りする英語の <図書館>が、内容からいって、この先もっとも充実した<図書館>となっていくのは当然である

ネット空間に形成している日本語圏の質は、英語のそれよりも既に圧倒的な差をつけられてしまっているように感じる。それはちょっとしたキーワードを 日本のwikiと英語のwikiで比べてみるだけでも分かるし、日本で人気のあるブログを見ていれば敏感に感じ取れるのではないだろうか。

このままポスト普遍語として英語が世界中に広がれば、

ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する

それだけではない。本当に恐ろしいのは、

<叡智を求める人>が<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである。(中略)<叡智を求め る人>は、自分で読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます<国語>で書こうとは思わなくなる。その結果、<国語>で書かれたものはさらにつまら なくなる。

といった悪循環が始まることだと指摘している。世界の叡智と叡智を求める人がどんどんどんどん英語だけに集約されていく。それって英語圏に生まれた世代にとってはものすごい恩恵になるだろうし、非英語圏にとっては第二外国語として如何に英語と接していくかが今よりも問われるようになってくる。

これからどの言語によってブログを書いてゆくか。どんな読者に読んでもらいたいのか。小説と同じく、ブログの本質だって究極的には「誰かに読んでもらう」ことにあるのなら、より多くの人に読まれる可能性がある言語で書かれるべきなのだろうか。

世界に隅有性を求めてみるか、もしくは公用語が2つある国のように日本語も英語も記述してしまうのも面白いかもしれない。茂木さんのように2つのブ ログを併用するのもアリだ。それとも著者や梅田さんや村上さんのように、日本語圏を豊穣のものとするべく(あえて)日本語だけを選択するか。

mixiから始まった僕の旅はほとんど自動的に日本語から始まったけれど、本書を読んで遅まきながら初めてブロガーとしての姿勢が問われているような気がした。

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