世界をリアルに感じるために・・『個を見つめるダイアローグ 村上龍×伊藤穣一』

「個」を見つめるダイアローグ
村上 龍 伊藤 穰一
ダイヤモンド社
売り上げランキング: 72254

外国人ジャーナリスト相手に日本批判するのは、
他人に向かって家族を批判するのと同じだ。
村上龍

なにもジャーナリストに限った話ではなくて、
海外で出会うすべてのひとたちに言えることだと思う。
旅先で忘れないようにしよう。

本当は偉くないのに、建前で偉いことになっていて、
ぜんぜんリスペクトされていないのに偉そうにしているのは、
社会にとって余計なコストがかかることだと思う。
伊藤穣一

そうそう。
ムカつくとかそういう感情的な理由よりも、
合理的に考えて、見合いませんよね、という考え方のほうが、
よっぽど、みんなが納得できるんじゃないかと。

日本人って「日本は大丈夫だ」と
なんとなく思いたがるところがあるでしょ。
でも、もっと現実を直視して、他からたくさん学ぶべきだと思う。
伊藤穣一

自分にすごく当てはまっている点。

今のアメリカの状況だって、
短期的にでもデフォルト(債務不履行)してしまえば、
世界に、日本に、どういった影響があるのか、
最悪のケースを真剣に考えなくちゃいけないのに、
円高だし外貨に変えとくか〜、ぐらいにしか受け止めてない自分に、
危機感を覚えてます。

どうしたら外国で起きている問題とも
真正面から向き合えるようになるかと言えば、
本を読むだけじゃなくて、やはり世界に出て、
そこで誰かと友達になって心を通わせる。
ときには議論もする。
そういう経験を積んでいくことが、
一番早いんじゃないかなあ。
伊藤穣一

そういうこと。行動しかない。

何かを「好き」になるコストとは?『すべての男は消耗品である。Vol.6』

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉
村上 龍
ベストセラーズ
売り上げランキング: 409158

実は、自分で個人的に何かを好きになるのは簡単ではない。
(略)個人という概念が未発達の国では、
そういった対象が見つかった瞬間に孤独になってしまうからだ。

個人的に何か好きなことを見つけたほうが有利に生きられる、という
コンセンサスはまだ日本社会にはない。
個人的に好きなことを見つけることは、
旧来の日本社会では多大なコストがかかる。

こんなこと考えたこともなかった。
何かを「好き」になることに、コストがかかるなんて。

確かに、何かを「好き」だというとき、
何かを「嫌い」だ、ということを孕んでいる可能性はある。
例えば、大阪で巨人ファンを公言すれば、
のけ者にされたり、反感を買ったりするかもしれない。
(ぼくは、大阪生まれの巨人ファンだ)

逆説的に言えば、孤独になることに抵抗がないひとであれば、
何かを「好き」だと表明することに対しても、抵抗がないということだ。

ふーむ、だから、じぶんは、こうなのか。

これからは、他人に何かを「好き」になることを、
安易にすすめないほうがいいのかもしれない。
それ相応のコストを払う覚悟があるひと以外には。

「生きづらさ」を、ぼくも肯定していこう。『友だち地獄 – 土井隆義』

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)
土井 隆義
筑摩書房
売り上げランキング: 16535

こういった若者に関する本を読むと、
ふだんは意識していないじぶんの特徴を、
客観的にみられるから面白いなぁ。

現代の若者たちが、グローバル化する世界のなかで、
皮肉にも内閉的なメンタリティを示す傾向を強めているのは、
社会という大海を知らない井の中の蛙だからではない。
逆に、グローバル化の荒波を被ることによって、
社会という大海の不確実性を身にしみて感じている人々だからである。
彼らは、自らの世界の絶対的なリアリティを確保するために、
社会的な視点をあえて排除しようと企てているのである。

「若者」を「日本」にも「世界」にも置き換えられる。
最近、茂木さんが話していたように、
「ガラパゴス化」を通して地球規模で連帯すること – クオリア日記
どんどん繋がりやすくなる世界のなかで、
自分が没個性化していくことへの焦りを、ぼくは感じているし、
世界中のひとたちも感じているんじゃないだろうか。

そして、地理的にも、精神的にも、
ローカライズドしようとする反応は、ある意味、
反射的な防御本能だと言える。日本の大学しかり、
日本の大学のガラパゴス化 – クオリア日記
最近「地域」や「田舎」という言葉に惹かれている自分もしかり。

内向きな安定志向を、自分の内に感じながらも、
一方で、自分を一生成長させていきたい、
自分の世界を広げていきたい、という気持ちもある。
そのごっちゃ具合が「生きづらさ」と表現するのだろうか。

著者が最後に述べているように、
そんな「生きづらさ」を、ぼくも肯定していこう。
それ以外になにがあるというんだ。

私は、生きづらさそのものから彼らが開放されるべきだとは、
実は思っていない。生きづらさからの開放が、
真のユートビアへの道になるとはとうてい思えないからである。
生きづらさのない人生など、まさに現実らしからぬ現実だからである。
(略)生きづらさを抱えながら生きることは、
世界をただ漠然と生きるだけではなく、
その世界に何らかの意味を求めざるをえない人間の本質である。
したがって、生きづらさの放棄は、人間であることの放棄でもある。

『日本力』

日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)

GOAL

中国、韓国、インドに対する日本のアドバンテージは?

POINT

中国には祭りがない。祭りがない国には「遊び」の余裕がない。創造性がない。中国がもう1つ上の世界へ行くためには創造性を生み出す余裕が必要だ。一方、日本には祭り、花火などが各地域でたくさん開催されている。

韓国はSamsungに頼りすぎ。韓国の株式時価総額の22%、貿易黒字の3分の1、全企業の純利益の4分の1を占めている(2003年)。一方、日本の企業は素材、バイオ、ナノテクと幅広い分野に世界的な企業を有しており、懐が深い。

インドはカースト制度が根深く残っている。国民全体の識字率は65%だ(2004-2005年)。一方、日本はそうした身分制度はもちろんないし、識字率も100%である。インドと比べて治安が良いのも創造性には欠かせない。

IDEA

その国の創造性を計る指標に「祭り」っていうのは面白い。これから外国を訪れるときは各地域で祭りが行われているかチェックすることにしよう。

「日本語が亡びるとき」を読んだ所感、ブロガーとしての選択

本書の中でたびたび出てくる「図書館」というワードによって真っ先に頭に浮かんだものは「wikipedia」のことであり、グーグルが進めている「ブックサーチプロジェクト」のことであり、ブログが創造している知的情報圏のことであった。

今、人類の歴史がはじまって以来の大きな<普遍語>となりつつある英語の<図書館>であり、その<図書館>だけが、英語を <外の言語>とするもの凄い人の数が出入りする、まったくレベルを異にする<図書館>なのである。(中略)高い教育を受けた全世界の人が出入りする英語の <図書館>が、内容からいって、この先もっとも充実した<図書館>となっていくのは当然である

ネット空間に形成している日本語圏の質は、英語のそれよりも既に圧倒的な差をつけられてしまっているように感じる。それはちょっとしたキーワードを 日本のwikiと英語のwikiで比べてみるだけでも分かるし、日本で人気のあるブログを見ていれば敏感に感じ取れるのではないだろうか。

このままポスト普遍語として英語が世界中に広がれば、

ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する

それだけではない。本当に恐ろしいのは、

<叡智を求める人>が<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである。(中略)<叡智を求め る人>は、自分で読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます<国語>で書こうとは思わなくなる。その結果、<国語>で書かれたものはさらにつまら なくなる。

といった悪循環が始まることだと指摘している。世界の叡智と叡智を求める人がどんどんどんどん英語だけに集約されていく。それって英語圏に生まれた世代にとってはものすごい恩恵になるだろうし、非英語圏にとっては第二外国語として如何に英語と接していくかが今よりも問われるようになってくる。

これからどの言語によってブログを書いてゆくか。どんな読者に読んでもらいたいのか。小説と同じく、ブログの本質だって究極的には「誰かに読んでもらう」ことにあるのなら、より多くの人に読まれる可能性がある言語で書かれるべきなのだろうか。

世界に隅有性を求めてみるか、もしくは公用語が2つある国のように日本語も英語も記述してしまうのも面白いかもしれない。茂木さんのように2つのブ ログを併用するのもアリだ。それとも著者や梅田さんや村上さんのように、日本語圏を豊穣のものとするべく(あえて)日本語だけを選択するか。

mixiから始まった僕の旅はほとんど自動的に日本語から始まったけれど、本書を読んで遅まきながら初めてブロガーとしての姿勢が問われているような気がした。