何かを「好き」になるコストとは?『すべての男は消耗品である。Vol.6』

すべての男は消耗品である。〈vol.6〉
村上 龍
ベストセラーズ
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実は、自分で個人的に何かを好きになるのは簡単ではない。
(略)個人という概念が未発達の国では、
そういった対象が見つかった瞬間に孤独になってしまうからだ。

個人的に何か好きなことを見つけたほうが有利に生きられる、という
コンセンサスはまだ日本社会にはない。
個人的に好きなことを見つけることは、
旧来の日本社会では多大なコストがかかる。

こんなこと考えたこともなかった。
何かを「好き」になることに、コストがかかるなんて。

確かに、何かを「好き」だというとき、
何かを「嫌い」だ、ということを孕んでいる可能性はある。
例えば、大阪で巨人ファンを公言すれば、
のけ者にされたり、反感を買ったりするかもしれない。
(ぼくは、大阪生まれの巨人ファンだ)

逆説的に言えば、孤独になることに抵抗がないひとであれば、
何かを「好き」だと表明することに対しても、抵抗がないということだ。

ふーむ、だから、じぶんは、こうなのか。

これからは、他人に何かを「好き」になることを、
安易にすすめないほうがいいのかもしれない。
それ相応のコストを払う覚悟があるひと以外には。

危機感を自分のこととして受け止められるか『希望の国のエクソダス』

希望の国のエクソダス (文春文庫)
村上 龍
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村上龍さんの小説を初めて読みました。
なにか、社会派小説といった雰囲気ですね。

ぼくが惹かれたのは、小説のストーリーよりも、
小説を通してみられる、龍さんの洞察の鋭さ、でした。

舞台は、2002年前後の日本なんですが、
小説内で龍さんが(たぶん、危機感をもって)訴えていることは、
いまの2010年の日本にも、相変わらず当てはまっています。

”それ”は日本社会のよくみえる場所に現れていないだけで、
慢性的な病気のように、じわじわと、
進行してきたんじゃないだろうか、ということです。

もちろん、小説内で、おおげさに表現された”それ”のいくつかは、
いまの日本で実現されていないこともありました。

ただ、”それ”が当たっているとかいないとか、そんなことを議論することは、
ぼくにとっては意味のない話で、
この小説を、これからの自分や家族、子供のことを考える材料として、
きちんと消化していきたいです。

希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を
受けているという事実をどう考えればいいのだろうか

普通、学校というところはリスクを特定してくれて、
そのリスクを管理するための訓練とか勉強を行うんだと思うんですね。

それがない以上はそこを出て、
自分たちで何とか自分たちなりにリスクを特定しながら、
それを管理するようにしないと、あまりにも危険すぎるでしょう?

希望を失った国に対する最良のスタンスは、
略奪ということになるでしょう。

先端的な知識や情報や技術を自分が持っていないというのは
確かに明らかな不安材料だ。

それらが社会的に有用で、しかも自分には欠落していると
自ら認めざると得ないとき、決定的な遅れをとり
誰か他人に搾取されるのではないかという不安と恐怖が生まれる。

大前提的な庇護を失い、個人が個人として生きるようになるという概念を
まだ日本人は持つことができないでいるが、
共同体として個人の関係性だけはなし崩し的に変わりつつある。

誰かに何かをしてあげたい、
誰かに何かをしてあげることができる存在になりたいという思いが、
どれだけ普遍的で、切実なものなのかを
これから日本人は思い知るようになると思う。

韓国とシールド

シールド(盾)

絵本だけどとても考えさせられた。それは二人の主人公に投影するものが僕の中にはあったからだと思う。特にコジマのストーリーはまさに僕の人生のそれだった。

二人の主人公、キジマとコジマは、ある老人から「人間のからだの中心にあるやわかいもの(心のことだと思った)を守るためには盾、シールドが必要だ」と教えられる。シールドがなければ、心は次第に硬くなっていき、やがて乾いた犬のクソみたいになってしまうと。

キジマとコジマはそれぞれ別の道を歩みながらも、物語の最後にはシールドの秘密を理解する。

コジマが出した結論は、「シェパード、ドイツ語、妻」だった。どれも「簡単に手に入らない」ものである。シェパードは仕事、ドイツ語は能力、妻は家 族を表していると思う。仕事と能力と家族。全て努力と愛情と忍耐がなければ真に手に入れることはできないものだ。この3つがコジマにとって人生を生きてい くためのシールドであった。

キジマが出した結論は、シールドには2種類あるということだった。自分の内部にあるシールドと外部にあるシールドだ。キジマにとって内部のシールド とは厳しいボクシングの練習で培ったハートの強さであり、外部のシールドとは会社のことだった。どちらのシールドが良いということではなく、両方のシール ドに守られていることを自覚し続けることが大事なんだ、と気が付いた。会社のシールドを失ってから。

自分のことを振り返ってみると、思春期のころから大学生まで、僕は自分を守るシールドを手に入れることができずに心が乾いたクソみたいになってい た。感情の起伏が少なく、いつも何かにビクビクしていて、外部から心を閉ざしていた。たまに上っ面だけ楽しそうにしていることはあっても、心の底から何か を楽しんだ記憶はない。だけど、別に辛いとも思わなかった。辛いと思えるだけの感情がなかったんだと思う。家庭内暴力を受けた子供が心を閉ざして自分を守 ろうとするように、外部から完全に心を閉ざしてしまえば辛さは軽減されるものなのだ。

そんな僕の心に変化が表れたのは、大学三回生の時にクラスで10日ほど韓国を訪れたときのことだった。日本という環境を離れて非日常の時間を過ごす 間、僕は思いっきり素を出すことができた。自分を守る必要がなくなったからだ。カッコ悪いだとか恥ずかしいだとか、自分が他人からどう見られているだと か、そんなことは全く思わなかった。非日常の空間だからこそ、日常にはない特殊な雰囲気がそこにはあった。

そして、僕らを迎え入れてくれた韓国の人たちの心温まる交流は、乾いて犬のクソみたいになってしまった僕の心を溶かしてくれた。ホームステイ先の人 たちが用意してくれた送別会の最後で、この人たちとお別れしなければいけないと思った瞬間、僕は猛烈な感情に襲われ大泣きしてしまった。あまりにも突然 だったので自分でも驚いてしまった。こんな泣き方をしたのは生まれて初めてだった。まるでウルルン滞在記である。とにかく泣いた。皆も泣いていた。

日本に帰国した後、映画や本で感動した時、素直に涙がでてくる自分を発見して驚いた。

あの韓国の出来事から数年が経って、今、僕は自分なりのシールドを内外に築こうとしている。シールドに依存することなく、良い関係をこれからも保っていきたい。