じぶんが消耗されないために。『巨泉―人生の選択』

巨泉―人生の選択 (講談社文庫)

巨泉さんは、芸能界でサバイバルしていくための嗅覚というか、
戦略というか、そういうものが鋭そうだという印象をうけました。

テレビへの出演オファーが多い時期、
週3つ以上の番組をもたないようにしていたそうな。
じぶんがメディアに消耗されないようにしていたんですね。

こういうことを意識して活動している芸能人って、
なかなかいない気がします。
Misiaさんや矢沢永吉さんといった、
音楽番組にはほとんど出演しないアーティストも同じ意図なのかな。
お笑いで言えば、おぎやはぎも、
同じようなこと言ってたなぁ。わざと、あんまり仕事はしねぇよ、って。

じぶんが消耗されるような、仕事のやり方をしていたら、
そのひとの才能は長生きしないんでしょう。
同じ仕事を長く続けることが目的なら、ですが。

そういえば、村上春樹さんもそんなこと言ってました。
才能の源泉がつきてしまうとダメ、
新しく掘りつづけなきゃいけないって。

じぶんは、なにを続けて、なにを掘っていきたいのだろうか。

若い頃は趣味をひろげて、徐々に3つ淘汰していく

これはボクが唯一のアドバイスであり、
30年以上も実行していることである。
出かける一年以上前から、行く先の国の歴史や現状をよく勉強すること、
できれば片言でもその国の言葉をしゃべれるようにする。
これであなたの旅行は倍豊かになります。

人間運の総量は同じ

日本語で書くこと、英語で書くこと

自分の思っていることを日本語ですらすらと口語的に表現できない人は、外国語をいくら熱心に勉強したところで、その言葉でもやはりうまくは話せないだろう。
(村上春樹著『やがて哀しき外国語』170頁)

最近、英語でブログを書き始めて感じたことは、日本語で文章を書くのが苦手な人は、英語で文章を書くのがもっと苦手だ、ということだ。さらに言うと、日本語でおもろいことを書けない人が英語で文章を書いてもつまらんってこと。

個人的な経験から言えば、英語で文章を書こうとすると、日本語で書いている量の三分の一から半分ほどしか書けない。僕はそもそも長文を書くのが苦手なので、英語の場合でも長文を書けないのは当たり前っちゃ当たり前な事実だった。

まぁ、それでも、まがりなりにも2年近く日本語でブログを書き続けてきたおかげで、自分の考えていることを表現するっていう行為に対しては、少しずつ慣れみたいなもんができてきたと思う。もしそういった経験がなければ、英語のブログなんて始められなかっただろう。

自分の文章スタイルはこれだ!っていうものが確立できるまでは、日本語で試行錯誤しながら文章を書きつつ、平行して英語の文章を書いていくのが、自分には合っているのかもしれない。

『ブログを読む』 to 『ブログを書く』

やがて哀しき外国語

ジャズを聴くのは好きだけれど、自分でゼロから何かを創造するというのはそれとはまったく違った種類のものだ。創り出す喜びを一度知ってしまうと、「ただ聴くだけ」ということを仕事にしているのがだんだん辛くなってくる。
(村上春樹著『やがて哀しき外国語』105頁)

仕事じゃないけれど、ブログにも同じようなことが言えると思う。僕にとって色んな人の『ブログを読む』ことはとっても楽しくて刺激的でほっこりする行為である。自分の世界を広げてくれることもあれば、同じ価値観をもつ人をウェブ上で発見し勇気を与えてくれることもある。

でも、『ブログを書く』ことの醍醐味を少しでも味わってしまうと、他人のブログを読むだけじゃ物足りなくなってくる。面白いエントリーを見つけたら、トラックバックを打って自分のブログでも紹介してみたくなったり、自分とは違ったブログに対する姿勢や文体に触発されて自分のブログに変化をつけてみたり、あれこれ反応したくなってくる。

他人のブログをたくさん読んで面白いと思える人は、自分で『ブログを書く』ことにもはまる可能性があるんじゃないかなぁ。どうだろう。受信アンテナの具合によるのかもしれないな。

二度目の「ノルウェイの森」

以前読んだのは確か高校生の頃だった。細かいストーリーは忘れていた。深くて静かで透明感のある印象だった。あの頃は、まだ誰かを真剣に愛したこともなかったけれど、それでも心に何か残る小説だった。

そして今、なぜだか分からないけれど久しぶりに読んでみたくなった。一気に読み終えた後、なにか心が揺さぶられるものがあった。心の一部分が小説に残ったままのような心地がした。

僕はすぐに外へ走りに出かけた。体に負荷をかけて現実を実感する必要があった。だからいつもより長く、速く走った。走っている最中は小説のことを考えたり、考えなかったり。とにかく脳を自動モードにしているような感じで走った。ジョギングから帰ってきて温かいシャワーを頭からたっぷり浴び終えてから、やっとホッと落ち着いた感じがした。

誰だって少なからず心の闇の部分を抱えて生きているものだと思う。赤の他人から見れば好き勝手生きていて悩みなんて全くないんだろう、と思われている(かもしれない)僕にだって闇は内在している。どうしようもなく孤独を覚えた時に「死」について考えることだってある。だからこそ登場人物たちの「死」を含んでいる「生」には強く共感を覚えた。そして、勇気付けられた気もした。現実を生きていくことは大変なことだけど、それでも生者は歩んでいくしかないのだ。主人公のように鈍感で不器用でも、誠実に正直に生きていきたいと思う。

仏滅だっていいじゃないか

僕は個人的にあえて仏滅に結婚式をあげるようなタイプの人々を好んでいる。「仏滅だろうが何だろうが俺たちはうまくいくんだ」をいう信念があれば何だってうまくいくはずだ―という気がする(村上春樹/安西水丸著『村上朝日堂』194頁)

僕は小学校ぐらいの頃のある日、近所の駐車場のナンバーに4がないことに気が付いた。きっと工事現場のおっちゃんが数字を入れ忘れたんだな。まったく。純粋にそう思った。

両親に理由を聞いてみて、4は縁起が悪いからなんだよと聞いて愕然としてしまった。大の大人が縁起を信じて駐車場に欠番を作るなんて!幼い自分には どうしても信じられなかった。それじゃあ、僕の誕生日は縁起の悪い数字ばかりじゃないか。ふざけんな。大きくなっても縁起なんてもんを信じる大人にはなっ てやるもんか。強く心に誓った。

だから、結婚式の日にわざわざ仏滅を避けるようなことをしないつもりだし、駐車場や車のナンバーだって4がついていても構わない。むしろ縁起の悪い数字を避けてくれる人がいることで、僕が選ぶ数字は競争率が少なそうでよかったと感謝しているぐらいである。

縁起をかつぐかつがないなんて他人があれこれ言う筋合いはないのは承知だけど、個人的には村上さんの意見に深く同意してしまった。

巨大な才能じゃないなら

もしあなたにシューベルトやミケランジェロみたいな才能があったとしたら、それはもうとっくに外にあふれ出てきているはずです。(中略)巨大な才能じゃなかったら、べつにあってもなくてもいいじゃないですか。

(村上春樹著『ひとつ、村上さんでやってみるか』189頁)

なんかね、肩の力が抜けるような発言。ふん、確かに僕には巨大な才能が溢れ出しているような感じはしない。溢れ出してたらブログなんて書いていないでしょ、たぶん。

特徴というか資質みたいなものは分かりつつあるんだけど。それを羅針盤にして毎日ちゃんと生きていれば、後から人生を振り返って、あぁ僕の(巨大で はない)才能はこれだったんだ、と思えればいいか。肩に力を入れすぎて何をやればいいか分からない時には、そんな脱力感も悪くないと思う。

What is worth doing, is worth overdoing

「What is worth doing, is worth overdoing」

『ひとつ、村上さんでやってみるか』で引用されていたフレーズで、訳は

「やる価値のあるものは、やりすぎるだけの価値がある」

まぁ、価値のあるものもやりすぎると何かと困ってしまう事が起こるような気もするけど、大抵の人(僕を含め)は大切なことを逆にやりすぎていないことが多いだろうから、それぐらいの意気込みがあってもいいか。

僕にとって、「やる価値のあるもの」を思いつくままざっと挙げると、

  • ジョギング
  • トレーニング
  • 英語の習得
  • 心の通った友人との交流
  • 早寝早起き
  • 収入の柱の構築
  • 読書
  • 旅行
  • 家族と仲良くする
  • 専門スキルを磨く
  • 日誌をつける
  • ブログを更新する

時間をかければまだまだ挙げられそう。ちょっとした価値のあることって誰にでもたくさんあるんじゃないかな。

でも、それをすべてやりすぎちゃうと時間がいくらあっても足りなくなってしまう。自分の価値観に優先順位をつけて、「本当に時間とエネルギーを費やして、やりすぎちゃう価値があるのか?」と自問してからでも遅くはないだろうな。

自分の呼び名

自分のことを「おじさん」とか「おばさん」と言った瞬間から、人はおじさんになり、おばさんになってしまうのです。

(村上春樹著『ひとつ、村上さんでやってみるか』248頁)

まったくおっしゃるとおり。人は心が老いた瞬間から肉体的な老いも加速するもんだと思う。

30代を超えて、親戚に甥っ子ができたとしても、自分のことを「おじさんorおばさん」呼ばわりしなくてもいいんじゃないかな。他人から言われるのは仕方がないかもしれないけれど、自分の心の中でその言葉を受け入れてしまったらもう負け。いっちょ、僕も一生「木下くん」で頑張ってみます。