キノシタケ
鎌倉に移住した夫+妻+娘のブログ

偶有性を世界に求める勇気があるか

最近、最も衝撃を受けたエントリー。

本日三十歳になった。出した結論は「やっぱり僕はグローバルに生きたい」というものだ。だから基本的には日本で、もとい「日本語で」ブログ活動をするのは今後止めにしたいと思う。インターネットには国境はなく、いますぐにでもグローバルな活動を始めたいと思えば始められるはずだ。
三十歳。国境のないインターネット。そしてグローバルに生きようという決意 – 二十代は模索のときブログ

僕がブログを書いている動機

  • 思考をまとめること
  • 成長の軌跡を残すこと
  • 自分と志向性の合う出会いを増やすこと
  • ブログを名刺代わりにすること

ざっとこんな感じである。

問題は3つ目、どこに志向性との出会いを求めているか、ということだ。最近このブログにも足を運んでくれる方が少なからずいて、ブログを通じた繋がりを実感することが多くなってきた。それはとても魅力的だし、ブログを更新する励みにもなる。

でもね、上記のエントリーを読んで自問させられた。お前は日本人との出会いだけを求めているのか、と。ブログに偶有性を求めるのなら世界と繋がっているほうがはるかにそれは大きくなる。そんなことは言うまでもない。

それじゃ、なぜ日本語でブログを書いているのだろうか。理由はいくつか思いつく。

  • 英語のインプット量が少ないので、英語でアウトプットするハードルが高い⇒インプット量を増やせばいい
  • 日本人との繋がりももっておきたい⇒二刀流でいくか?英語で書いても支持してくれる人だけと繋がるか?
  • 日本語のほうが自分の思考を素直に出せる⇒英語だと本当に無理なのか?

僕は過去にも同じようなことを書いている。

世界に偶有性を求めてみるか、もしくは公用語が2つある国のように日本語も英語も記述してしまうのも面白いかもしれない。茂木さんのように2つのブ ログを併用するのもアリだ。それとも著者や梅田さんや村上さんのように、日本語圏を豊穣のものとするべく(あえて)日本語だけを選択するか。

mixiから始まった僕の旅はほとんど自動的に日本語から始まったけれど、本書を読んで遅まきながら初めてブロガーとしての姿勢が問われているような気がした。
「日本語が亡びるとき」を読んだ所感、ブロガーとしての選択

ブログを併用するとか日本語圏を豊穣にするとかカッコいいこと言ってるけど、ただ単に覚悟が足りていなかっただけなのか。

何かを選ぶということは何かを捨てることなんだなぁとつくづく実感している今日この頃。そして、それは歳を重ねれば重ねるほどシビアになってゆく。
時間が欲しい – codemaniaxの脱・公務員宣言

このような思いを共有し、あえて心地よい日本語の世界から一歩踏み出し、不自由な英語の世界に身を投じようとする人がいるのなら、少しでも応援したいと思い、その心細さを少しでも分かち合いたいと思い、このような文章でもものしてみようかと思ったまでのことである。
英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn’s Clairvoyance – CNET Japan

ブログに関して「Comfort Zone」に安住するかどうか問われている。

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